ひきこもりのちーちゃん

主に読書感想文

【読書感想文】「虚構の家」 曽野綾子

 さて、「虚構の家」という本を読みました。ネタバレには多少の配慮をしていますが、多少ですので、ご容赦くださいませ。

 

 

 カトリックの人が書いた本だというから、キリスト教的な物語なのだろうと誤解していました。そもそもキリスト教的な、とはなんでしょうか。平たくいえば、神様を信じている人の本なのだから、きっとハッピーエンドで終わるのだろうと思っていたということです。

 しかしこの本はそんなに単純なものではありませんでした。まさに著者自身が語る「多重構造の精神」を描いたものでした。

 

 

 

 この物語に登場する人物をとりあげて、誰が悪いとか、誰が正しいとか言うことはできません。

 

 不潔でいい加減な社会に悩まされた少年、基が、たどった結末は悲惨なものです。彼は潔癖症で、学校に行けず、最後には家から出られなくなってしまいました。

 基が苦しんだのは、母親であるくに子のせいだと言うのは簡単なことです。

 しかし、「私はくに子のような過ちを犯しません」と、誰が言えるでしょうか?

 そんなことを軽々しく言い放つ人は、自分もまた偽善者であると自覚しなければならないでしょう。


 雅子が送る鬱々とした毎日は、生きながらにして死んでいるようなものでした。

 彼女について書かれた箇所を読むことはとても辛く、私には正視できません。彼女が迎えた結末はあまりにも寒々しく、とても悲しいものでした。夜の寒さが、自分の体にも染み渡るようでした。しかし、どこか救いがあったように思いました。

 

 雅子の夫と息子は、女というものを物のように扱いました。雅子とその娘は、家の男たちの所有物であり、自分の意思など持ってはいけないようなものだったのです。

 離婚すればいいなどと簡単に言ってはいけません。これは昔の話ですから、女に自由などなかったのです。現代の女だって、簡単に離婚なんてできませんよね。既婚者の方はよくご存知かと思います。

 

 雅子は自分の息子にどのように扱われても、彼に尽くしました。

 彼女の人生は、人の皮をかぶった怪物に仕えるためのものだったのです。

 

 私は未熟な人間なので、雅子が真に息子のことを愛していたかどうか、分かりません。侮蔑と暴力の中で、我が子を愛する気力は残らないと私は考えています。

 ただひとつ言えることは、雅子は息子の内面がいよいよもって厚かましくなっていくことを確信し、絶望していました。

 息子のことが心からどうでもよいのであれば、彼の人格や、彼の未来を思って涙を流したりはしなかったでしょう。

 

 

 立派な大人を自称する人は、この本を読んでいともたやすく教訓を得ることができるのでしょうか。これを読んで、自分は幸福で賢い人間だと思うのであれば、なおさらくに子と同じ過ちを犯すことにならないでしょうか。

 

 さて、私は引きこもりなので、基の立場に立って物事を考えてみます。

 この本の中には、基の目線から描かれたことは何一つありませんでしたから、全ては私の想像です。

 

 基は潔癖症で、汚いものや、間違ったものを一切許すことができませんでした。

 他人を許せないだけなら、ただ自分勝手な大人に育っただけです。

 けれど基は自分のことすら許すことができませんでした。

 

 彼は、母親や使用人のサツキが嘘をついたり誤魔化したりすると、彼は癇癪を起こします。叱られてもそうです。

 なぜ癇癪を起こすのかというと、間違いを認められないからです。彼は間違っているものの存在が一切認められないのですから、自分が間違っていることを認めるということは、自分に生きている価値がないと言われるのと同様のことだったのです。

 

 間違いを犯さずに生きていくにはどうしたらいいでしょうか? それは手段としては簡単で、部屋に閉じこもって、誰とも関わりを持たなければいいのです。私みたいに。

 

 しかし彼は、お寺で修行して生まれ変わることを選びました。母親から離れて厳しい環境に身を置けば成長すると思っていたのでしょうか。いえ、彼は、楽観的な希望を抱いていたのです。自分にないもの、自分の知らないものを取り入れれば、自分は変われるに違いないと思っていたのです。

 私もそういう希望を抱いていたことがありましたが、どんなに新しいものを取り入れてみても、何も変わりませんでした。

 

 彼に必要だったのは立派な人間になるための修行などではありません。

 

 では、何が基に必要なものだったのか?

 結論にたどりつくために、まず、ひきこもりである私の持論を聞いてください。

 

 清く正しい人間など、本当にこの世にいるのでしょうか。私は、ただの一人もいないと思っています。「私は真面目で優しい人間です」などと自分のことを宣伝している人間は、その真逆の人物像だと思って間違いないでしょう。

 

 また、特定の誰かを取り上げて「いい人だ」などと紹介する人は、自分の発言について一切、責任を取るつもりはありません。その人が悪いことをすれば、「そんな人だとは思わなかった。騙された」と言うに違いないのですから。

 

 基に必要だったのは、「間違っていても構わないんだ」という許しです。

 

 その許しは社会からは与えられません。今の社会が間違ったことを許さないことは、炎上騒ぎなどを見ていればわかります。社会とはより多くの多数派がよりよく生活していくためにあるものなので、多数派にとっての間違いは許されないのです。


 しかし家族の中ですら、間違いを許さなければどうなるでしょうか?

 私はその結果どうなるかをよく知っています。

 

 雅子は、基は家が好きだから家にこもっているのだと思っていました。そして、息子がずっと家にいてくれるなんて、母親としてなんて素晴らしいことなのだろうとすら考えていました。

 

 いえ、それは違います。

 家族すら基を許さなかったから、基は家から出ることができなくなったのです。

 

 これは不幸なお話で、表面だけなぞると救いなんてどこにもないように思えます。

 けれど私は、これを魂の解放のお話だと受け取りました。この著者は、人間の醜いところや悪いところを直視して、肯定しているのだと、私は考えます。