【日記】人としての品性のお話
なぜ私以外の人たちは良好な人間関係が築けるのだろう…?
私以外の人には友達がいて、仲間がいて、恋人がいる。家族との人間関係だって良好だ。傷つくことがあっても、また社会に立ち向かうことができる。なんて素晴らしい。
で、その素晴らしい関係がなぜ私にはないのか?
もちろん好意的な人間関係が全くなかったわけではないけれど。
いや、かつて小説書いてた時とかは好きになってくれた人が僅かながらいたんだけれども、その人たちだって「あなたの小説は好きだけどあなた自身はちょっと…」という感じだった。普通に傷ついたけれど、逆にとても有り難くもあった。人格嫌いなのに小説読んでくれてありがとう……ってなものである。
あとは「あなたとセックスしたい」って直接的に言ってくる男の子がいた。私はセックスしたくなかったけど、好意自体はありがたいものだと感じたし、エロチャとかしていた。楽しい黒歴史である。
でもなんか、それらは私が憧れている良好な人間関係とはなにかが違うわけです。
だらだらと考え続けていたら、ある結論にたどりつきました。
人間が人間を好きになるときは、「行動、品性、知性」によって好きになるのでは。
たとえば高級なレストランに入るためにはそれにふさわしいドレスコードがありますよね。良好な人間関係というのは高級なレストランと同じで、品性を保つための努力によって築かれているものなのではないだろうか? ……と思ったのです。
人間が人間を好きになるのは、その人の努力によるものでしかない。
そしてその努力によって身につけられるものがドレスコードなんじゃないかと。
良好な人間関係に入るためにはドレスコードを守る必要がある。
……と、結論づけました。
私は相応しいドレスを持っていない
ドレスコード、すなわち、知性だったり、能力だったり、最低限の礼儀作法だったりを、私は身につけていないのですね。私って普通に粗野で失礼な人間ですから、マジでどこに行っても居場所がないです。
その上で特別な努力もしていない。そりゃあ友達ができないわけです。
小説を書いていた頃の私は小汚い道端の吟遊詩人みたいなもので、作品を見るのはいいけど個人的に関係を持つのはちょっと……となるのは当然だったわけです。
私とセックスしたい少年にしても、ドレスを持っていない私と同じく、彼もスーツを持っていない。だからそれが必要のない場で会話していたということです……セックスしたいかどうかはおいておいて。
だから現状のままで友達を作るには、同じくドレスやスーツを持っていない人と友達になるしかないんです。友達って、たぶん対等なものですから。
でも道端の吟遊詩人である私を見て、同じくボロを着た人が、「自分はドレス着た人と関わりたいんだよね~」と言って、目の前を通り過ぎていくのが現状です。何故。
スーツ着てない男がお嬢様とセックスできると思うなよ。お前なんか私で十分だ。クソが。
結論。
・人間関係にはドレスコードが必要
・ドレス持ってない人もドレス着た人じゃなきゃ友達になりたくない
でもまあ、小汚い吟遊詩人からただの吟遊詩人くらいにはなろうかな…。
美しい言葉遣いの練習からしてみようかしら。