【暗黒日記】健常者にとって障害者って"物"だよね
新しい本が手元にあるので読書感想文を書こうかなって思っていたのですが、精神が暗黒面に落ち込んできたのでなんか書こうと思います。
これは暗黒日記です。暗い気持ちになりたくない人は読まないことをオススメします。お気をつけください。読者になってくれた親切な方々は、まあできれば、読書感想文だけサラッと読んでいただければ……と思っていますが、ひきこもり障害者が何を思っているか知りたい方は読んでみてください。
私は他人の介護がないと生きられない程度にはポンコツで、福祉関係の人のお世話になりながら生活しています。しかし、ここでいつも心の中に葛藤が起きます。
というのは、子供の頃からあらゆる人から徹底的に嫌われてきた私は、福祉関係の人の優しさが信じられないのです。
私を罵倒したりからかったりしていた同級生たちや、私を軽蔑してきた教師たちの姿こそが人類の本音で、福祉関係の人たちはある種の嘘をついているのだと思って、普段はその事実(被害妄想かもしれませんが)を諦めて過ごしています。
それはあまりにもギャップがあるからです。
出会ってきた人すべてが私を嫌悪してきました。そこまで行かずとも、見下されてきました。それなのに突然優しくされても困ってしまうんですよね。もちろんだからといって、わざわざ罵られたくはないのですが。
私がいちばん許せないのは、私のことを思っているふりをして個人情報を聞き出そうとしてくる輩です。介助に必要ない個人情報を聞き出そうとする人は、必ずそれを不特定多数に言いふらします。例外はありません。
「こんな障害者の面倒みてるわたしっていい人でしょ」とアピールするためです。
そして健常者さまの多くは、このおそるべき偽善者を、本物の善人だと思って褒めたり崇め奉ったりするわけです。
この場合、私は"物"です。
健常者さまの承認欲求を満たすための"物"にすぎません。
この偽善に気付かない純粋で素直な(私に言わせればただのバカ)な障害者たちは可愛がられ、どんなわがまでも聞いてもらえて、居場所を提供してもらえますが、私みたいに猜疑心の塊のような障害者には居場所がありません。
「他の子たちは純粋で素直なのにあなたは違うから、ここにいないでほしい」
って、特殊学級の担任の先生にフツーに言われましたからね。
善良な(笑)世界に生きている人には信じられないことかもしれませんが。
信用できる福祉関係の人は、ビジネスライクな態度を崩さない人だけです。そういう人にはかえって心を許すことができます。しかし、「あなたの友人になりたい」などと言って近づいてくるような人は、一切信用できません。私のことを道具としか思っていないのですから。
私に対して優しい健常者は(おそらく)ウソつきだから嫌い、私に対して優しくない健常者は普通に嫌い。同じ障害者でも、その中ですらランク付けがあるので、嫌い。
こうなってくると私はどうしたらいいのでしょうか。
そう。家から出ないことしかありません。
私のことを意思疎通のできる人間だと思っている人は、片手の指で数えるほどしかいないでしょう。インターネット上で知り合った表面だけの付き合いの人は別ですが。
私が求めているのは心の平穏だけです。
私が自分で自分のことをできる人間だったら、他人なんていらないのです。
でも私がそういうまともな人間だったら、そもそもここまで人間のことを嫌いにならなかったでしょうね。これ「ナントカのジレンマ」とか名前ありませんかね。そういう哲学的な知識、私にはほとんどないので分かりません。
ただ言えることは、みんなが私のことを嫌いになるから、私もみんなが嫌いなのです。せめて人として扱ってほしいと願うばかりですが、健常者同士でも相手を人として尊重するのはそれなりに難しいことみたいですね。
【日記】人としての品性のお話
なぜ私以外の人たちは良好な人間関係が築けるのだろう…?
私以外の人には友達がいて、仲間がいて、恋人がいる。家族との人間関係だって良好だ。傷つくことがあっても、また社会に立ち向かうことができる。なんて素晴らしい。
で、その素晴らしい関係がなぜ私にはないのか?
もちろん好意的な人間関係が全くなかったわけではないけれど。
いや、かつて小説書いてた時とかは好きになってくれた人が僅かながらいたんだけれども、その人たちだって「あなたの小説は好きだけどあなた自身はちょっと…」という感じだった。普通に傷ついたけれど、逆にとても有り難くもあった。人格嫌いなのに小説読んでくれてありがとう……ってなものである。
あとは「あなたとセックスしたい」って直接的に言ってくる男の子がいた。私はセックスしたくなかったけど、好意自体はありがたいものだと感じたし、エロチャとかしていた。楽しい黒歴史である。
でもなんか、それらは私が憧れている良好な人間関係とはなにかが違うわけです。
だらだらと考え続けていたら、ある結論にたどりつきました。
人間が人間を好きになるときは、「行動、品性、知性」によって好きになるのでは。
たとえば高級なレストランに入るためにはそれにふさわしいドレスコードがありますよね。良好な人間関係というのは高級なレストランと同じで、品性を保つための努力によって築かれているものなのではないだろうか? ……と思ったのです。
人間が人間を好きになるのは、その人の努力によるものでしかない。
そしてその努力によって身につけられるものがドレスコードなんじゃないかと。
良好な人間関係に入るためにはドレスコードを守る必要がある。
……と、結論づけました。
私は相応しいドレスを持っていない
ドレスコード、すなわち、知性だったり、能力だったり、最低限の礼儀作法だったりを、私は身につけていないのですね。私って普通に粗野で失礼な人間ですから、マジでどこに行っても居場所がないです。
その上で特別な努力もしていない。そりゃあ友達ができないわけです。
小説を書いていた頃の私は小汚い道端の吟遊詩人みたいなもので、作品を見るのはいいけど個人的に関係を持つのはちょっと……となるのは当然だったわけです。
私とセックスしたい少年にしても、ドレスを持っていない私と同じく、彼もスーツを持っていない。だからそれが必要のない場で会話していたということです……セックスしたいかどうかはおいておいて。
だから現状のままで友達を作るには、同じくドレスやスーツを持っていない人と友達になるしかないんです。友達って、たぶん対等なものですから。
でも道端の吟遊詩人である私を見て、同じくボロを着た人が、「自分はドレス着た人と関わりたいんだよね~」と言って、目の前を通り過ぎていくのが現状です。何故。
スーツ着てない男がお嬢様とセックスできると思うなよ。お前なんか私で十分だ。クソが。
結論。
・人間関係にはドレスコードが必要
・ドレス持ってない人もドレス着た人じゃなきゃ友達になりたくない
でもまあ、小汚い吟遊詩人からただの吟遊詩人くらいにはなろうかな…。
美しい言葉遣いの練習からしてみようかしら。
あなたが卑劣であろうと生きていていい理由
私は自分を貫こうとするあまり、人との衝突が絶えない人生でした。しかし同時に心根が弱く、人とぶつかり合うたび、申し訳ない気持ちでいっぱいになって、人に嫌われる私なんてここにいてはいけないんだ、と思っていました。
同時に、心にもないことを言って他人に取り入るずるさも持っていました。たとえ大勢に褒められても、そのずるさを見抜いたわずか数人に悪口を言われて傷ついていました。そして、そんな自分が大嫌いでした。
自分の目標を達成するために、全ての人と円満に、なんて不可能でした。誰とも衝突しないようにすれば、他人との摩擦で自分が削れて消えてなくなってしまうのです。
けれど、どうして私が消えてしまわなくてはいけないのでしょう?
かけがえのない夢を追っているのに、その過程でいつも人との関係でつまづく。そんな悩みを抱えている人間が読むべき小説があります。
それは「私にふさわしいホテル(柚木麻子)」 です。
今の私にとって、これ以上の物語はありません。
可愛らしい素朴な表紙からは想像もできないほど、刺激的な内容でした。
ダイナミックで分かりやすく、大味とも言えるのかもしれませんが、問題はストーリー構成ではなく、土台となるテーマの部分なのです。
主人公の作家・有森樹李は、この上なく魅力的な人物です。はじめから終わりまで、まったく目が離せない主人公です。
雑誌に連載を勝ち取るため、この主人公が大御所の小説家を卑劣な手段で蹴落とすことから物語ははじまります。
小説家になるという自分の夢を掴んだはずの主人公は、翻弄され、貶められ、傷つけられます。しかし、彼女は目の前の敵に敢然と立ち向かっていくのです。
私は、この主人公の苛烈さ、力強さに面食らいました。表面上の行動だけ見れば、私はとてもこんなふうにはなれない、と思うのです。しかし読み進めるうちに、私は彼女に深く共感している自分に気づきました。
彼女が戦うことができるのは、私たちと別の生き物だからではありません。同じように夢を追いかけ、同じように傷つき、同じように悲しみながら、それでも戦うことを選んだだけです。
その戦い方は卑劣で、かつドラマのように非現実的です。それがかえって、彼女を理想的なスーパーヒーローのように見せるのです。内心は決して穏やかではない。それでも歩みを止めない。その姿勢が私の心をとらえました。
この小説に出てくる小説家たちは、かなり手酷くこきおろされます。そんなこと私が言われたら立ち直れないかもしれない、と思うような言葉が、容赦なく作家たちを襲います。しかし彼らは決してその舞台から降りず、色あせて死んだようになりながらも、それでも作家として生きていくのです。
登場人物はどうしようもない醜さをもった人物ばかりです。きれいでまっすぐな人間なんて、この本には登場しません。しかし誰もが自分の人生を生きるために必死なのです。そのためなら、誰を蹴落とそうが、知ったことではないのです。
この物語は、醜く卑劣な心を持つ私が、どうして生きていていいのかを教えてくれるようでした。
自分の夢をかなえるために、自分が生きていくために、人を傷つけた過去を悔やんでいましたが、きっと私のその姿勢は間違っていなかったのです。私は人のためではなく自分のために生きていたのですから。それに私自身も蹴落とされてきたのですから。
間違いがあったとしたら、早々に勝負から降りてしまったことなのかもしれませんね。私が以前いた場所で、私を蹴落とすことに成功した人々は、今頃笑っているかもしれません。でも本当なら、私がそこに立っていてもよかったのです。
みな同じ人間で、同じ世界に生きています。
みんなが人の悪口を言ったり貶めたりするのは、自分が自分として生きていくためなのかもしれませんね。ただ自分を守るために戦っているだけなんです。そして私は戦いを放棄して、自分だけが聖女のように正しくあろうとしていただけなのかもしれません。ひきこもっていれば、誰も傷つけなくてすみますからね。
正しく清潔でいることより、自分が自分として生きることのほうがずっと大切なのだという当然のことを、しばらく忘れていた気がします。