【日記】ひきこもりが精神衛生を守るための話
別にひきこもりじゃなくても精神は守ったほうがいいと思います
思わぬ不快な情報を目の当たりにして嫌な気持ちになることがあると思います。
一番いいのはネットサーフィンをしないことなんですが、今の時代、
ネットを一切見ない生活なんて逆に不自然ですよね。
かといってTwitterのNGワードってあんまし上手く機能しません。
普通にすり抜けてきます。
精神衛生を守るアドオン
というわけで、私がつかっているのは「CustomBlocker」というアドオンです。
あとは「styles」というアドオンも使っています。
これらはPC版のChromeとかで使うことができます。
画像もなしに恐縮ですが、これらを上手に使いこなすと、
あらゆるサイトのあらゆる不快な情報をブロックすることができます。
禁止ワードを指定すると、それが含まれた要素が最初からなかったみたいに消えます。
便利です。
TwitterでもYou Tubeでも見たくないものは全部、アドオンでブロックしましょう。
You Tubeでは、「channelBlocker」っていうアドオンも併用するべきです。
なぜかYou Tubeにはチャンネルごとブロックする機能がないので、
こういうのを使わないと精神がすり減っていきます。
ネット絶ちしなくてもNGワード指定で精神安定は守れる。というお話でした。
余談なんですが、最近、好きなYouTuberがどんどん消えていきます。
コメント欄は上記の「styles」で消去しているのでコメントは読んでないんですが、
アンチコメとか多いんですかね……。
【日記】人としての品性のお話
なぜ私以外の人たちは良好な人間関係が築けるのだろう…?
私以外の人には友達がいて、仲間がいて、恋人がいる。家族との人間関係だって良好だ。傷つくことがあっても、また社会に立ち向かうことができる。なんて素晴らしい。
で、その素晴らしい関係がなぜ私にはないのか?
もちろん好意的な人間関係が全くなかったわけではないけれど。
いや、かつて小説書いてた時とかは好きになってくれた人が僅かながらいたんだけれども、その人たちだって「あなたの小説は好きだけどあなた自身はちょっと…」という感じだった。普通に傷ついたけれど、逆にとても有り難くもあった。人格嫌いなのに小説読んでくれてありがとう……ってなものである。
あとは「あなたとセックスしたい」って直接的に言ってくる男の子がいた。私はセックスしたくなかったけど、好意自体はありがたいものだと感じたし、エロチャとかしていた。楽しい黒歴史である。
でもなんか、それらは私が憧れている良好な人間関係とはなにかが違うわけです。
だらだらと考え続けていたら、ある結論にたどりつきました。
人間が人間を好きになるときは、「行動、品性、知性」によって好きになるのでは。
たとえば高級なレストランに入るためにはそれにふさわしいドレスコードがありますよね。良好な人間関係というのは高級なレストランと同じで、品性を保つための努力によって築かれているものなのではないだろうか? ……と思ったのです。
人間が人間を好きになるのは、その人の努力によるものでしかない。
そしてその努力によって身につけられるものがドレスコードなんじゃないかと。
良好な人間関係に入るためにはドレスコードを守る必要がある。
……と、結論づけました。
私は相応しいドレスを持っていない
ドレスコード、すなわち、知性だったり、能力だったり、最低限の礼儀作法だったりを、私は身につけていないのですね。私って普通に粗野で失礼な人間ですから、マジでどこに行っても居場所がないです。
その上で特別な努力もしていない。そりゃあ友達ができないわけです。
小説を書いていた頃の私は小汚い道端の吟遊詩人みたいなもので、作品を見るのはいいけど個人的に関係を持つのはちょっと……となるのは当然だったわけです。
私とセックスしたい少年にしても、ドレスを持っていない私と同じく、彼もスーツを持っていない。だからそれが必要のない場で会話していたということです……セックスしたいかどうかはおいておいて。
だから現状のままで友達を作るには、同じくドレスやスーツを持っていない人と友達になるしかないんです。友達って、たぶん対等なものですから。
でも道端の吟遊詩人である私を見て、同じくボロを着た人が、「自分はドレス着た人と関わりたいんだよね~」と言って、目の前を通り過ぎていくのが現状です。何故。
スーツ着てない男がお嬢様とセックスできると思うなよ。お前なんか私で十分だ。クソが。
結論。
・人間関係にはドレスコードが必要
・ドレス持ってない人もドレス着た人じゃなきゃ友達になりたくない
でもまあ、小汚い吟遊詩人からただの吟遊詩人くらいにはなろうかな…。
美しい言葉遣いの練習からしてみようかしら。
【読書感想文】「星がひとつほしいとの祈り」 原田マハ
「星がひとつほしいとの祈り」という短編集を読みました。
いくつもの恋愛、友情、家族愛を読みやすく美しい文章とともに楽しむことができました。短編集だけあってあっさりとした読み味で、穏やかで有意義な時間を過ごすことができました。
恋愛小説が読みたいけれど、濃厚なやつを読む体力はないかなあ、というときに、この本が枕元にあると嬉しい。そんな内容でした。
一番、心に残ったのは、まさにタイトルになっている「星がひとつほしいとの祈り」という短編です。とても物哀しい展開ですが、重要なのはハッピーエンドかバッドエンドか、などという表面的なことではなく、そこに描かれた人間の情愛のほうなのです。
それはそうと、「虚構の家(曽野綾子)」を読んでいるときも思ったのですが、昔の女性の上品な言葉遣いって好きなんですよね。平成生まれの女が今それを真似したら寒々しいでしょうが、その奥ゆかしい振る舞いにちょっと憧れます。
内面も伴っていないと、あまり意味はないんでしょうけどね。
あなたが卑劣であろうと生きていていい理由
私は自分を貫こうとするあまり、人との衝突が絶えない人生でした。しかし同時に心根が弱く、人とぶつかり合うたび、申し訳ない気持ちでいっぱいになって、人に嫌われる私なんてここにいてはいけないんだ、と思っていました。
同時に、心にもないことを言って他人に取り入るずるさも持っていました。たとえ大勢に褒められても、そのずるさを見抜いたわずか数人に悪口を言われて傷ついていました。そして、そんな自分が大嫌いでした。
自分の目標を達成するために、全ての人と円満に、なんて不可能でした。誰とも衝突しないようにすれば、他人との摩擦で自分が削れて消えてなくなってしまうのです。
けれど、どうして私が消えてしまわなくてはいけないのでしょう?
かけがえのない夢を追っているのに、その過程でいつも人との関係でつまづく。そんな悩みを抱えている人間が読むべき小説があります。
それは「私にふさわしいホテル(柚木麻子)」 です。
今の私にとって、これ以上の物語はありません。
可愛らしい素朴な表紙からは想像もできないほど、刺激的な内容でした。
ダイナミックで分かりやすく、大味とも言えるのかもしれませんが、問題はストーリー構成ではなく、土台となるテーマの部分なのです。
主人公の作家・有森樹李は、この上なく魅力的な人物です。はじめから終わりまで、まったく目が離せない主人公です。
雑誌に連載を勝ち取るため、この主人公が大御所の小説家を卑劣な手段で蹴落とすことから物語ははじまります。
小説家になるという自分の夢を掴んだはずの主人公は、翻弄され、貶められ、傷つけられます。しかし、彼女は目の前の敵に敢然と立ち向かっていくのです。
私は、この主人公の苛烈さ、力強さに面食らいました。表面上の行動だけ見れば、私はとてもこんなふうにはなれない、と思うのです。しかし読み進めるうちに、私は彼女に深く共感している自分に気づきました。
彼女が戦うことができるのは、私たちと別の生き物だからではありません。同じように夢を追いかけ、同じように傷つき、同じように悲しみながら、それでも戦うことを選んだだけです。
その戦い方は卑劣で、かつドラマのように非現実的です。それがかえって、彼女を理想的なスーパーヒーローのように見せるのです。内心は決して穏やかではない。それでも歩みを止めない。その姿勢が私の心をとらえました。
この小説に出てくる小説家たちは、かなり手酷くこきおろされます。そんなこと私が言われたら立ち直れないかもしれない、と思うような言葉が、容赦なく作家たちを襲います。しかし彼らは決してその舞台から降りず、色あせて死んだようになりながらも、それでも作家として生きていくのです。
登場人物はどうしようもない醜さをもった人物ばかりです。きれいでまっすぐな人間なんて、この本には登場しません。しかし誰もが自分の人生を生きるために必死なのです。そのためなら、誰を蹴落とそうが、知ったことではないのです。
この物語は、醜く卑劣な心を持つ私が、どうして生きていていいのかを教えてくれるようでした。
自分の夢をかなえるために、自分が生きていくために、人を傷つけた過去を悔やんでいましたが、きっと私のその姿勢は間違っていなかったのです。私は人のためではなく自分のために生きていたのですから。それに私自身も蹴落とされてきたのですから。
間違いがあったとしたら、早々に勝負から降りてしまったことなのかもしれませんね。私が以前いた場所で、私を蹴落とすことに成功した人々は、今頃笑っているかもしれません。でも本当なら、私がそこに立っていてもよかったのです。
みな同じ人間で、同じ世界に生きています。
みんなが人の悪口を言ったり貶めたりするのは、自分が自分として生きていくためなのかもしれませんね。ただ自分を守るために戦っているだけなんです。そして私は戦いを放棄して、自分だけが聖女のように正しくあろうとしていただけなのかもしれません。ひきこもっていれば、誰も傷つけなくてすみますからね。
正しく清潔でいることより、自分が自分として生きることのほうがずっと大切なのだという当然のことを、しばらく忘れていた気がします。
【読書感想文】「ケーキの歴史物語」 ニコラ・ハンブル
「ケーキの歴史物語」という素晴らしい本を読みました。
これは文字通り、ケーキの歴史について書かれている一冊です。
ケーキとは概念である。
ただ食べるためだけのものではなくて、歴史の様々な面で、特別な日を彩るためにつくられてきました。そんなあらゆるケーキについて、この本は語っています。カバーする範囲は古い時代の今とは全く異なるものから、90年代に出てきたカップケーキまで。
ケーキとパンの区別はあやふやなものだったとか、ケーキの原型はただ丸く焼いただけものだったとか、膨らんですらいなくて薄かっただとか、おかゆに色々加えたらプディングになったとか、そんなこと知りもしないし考えたこともありませんでした。
ペーキングパウダーがなかったころのケーキ作りは大変な重労働だとかで、キッチンで働く筋肉隆々の男性たちを描く風刺画などの紹介もあり、たいへん面白かったです。
こういった面白い情報が、最初から最後までぎっしり詰められ、更にはケーキから分かる国民性、文学の中でのケーキの扱いにまでふれていきます。
そしてこの本から得られる情報はケーキについてだけではありません。ケーキに関わるあらゆる歴史的側面や、様々な文学や映画などを紹介していきます。
ですので読んでいるだけで、「次はこれを調べてみようかな」と思うことができました。これを三日に分けて読んだのですが、全く退屈しない三日間でした。
ケーキは国の顔のようなものであり、象徴であり、あらゆる食べ物の中でも非常に重んじられてきたものでした。
今度からは、そのことを意識して、歴史上の偉人に感謝した上でケーキをいただこうかな、なんて思いました。とはいえ最近ケーキなんて買ってないから、食べるのはコンビニやスーパーのケーキかもしれないけど。しかしそれだって、いつかは歴史の本に載るかもしれませんね。
【読書感想文】「乙女の教室」 美輪明宏
さて、「乙女の教室」という美輪明宏さんの本を読みました。
私は乙女などというものからは程遠い、がさつな人間です。しかしこれまでの人生の中で自分とは異なる上品な女性とも出会ってきました。
彼女たちの気持ちが少しでも理解できるかと思って、読んでみようと思ったのです。 感銘を受けた言葉をここに書き残しておきます。
ネタバレには多少の配慮をしますが、多少なので、ご容赦ください。
私は、礼儀作法とは「自分が恥をかかないためにある」ものだと思っていました。
誰かに馬鹿にされないためだとか、見下されないためにある、威嚇行動だと思って生きていたのです。というのも、私が出会ってきた一見上品な女性たちは、たびたび私の言葉遣いや私の容姿を中傷してきたからです(読書感想文と言いながら私事で申し訳有りません)。
しかしどうでしょう。
この本には、礼儀作法とは「相手に恥をかかせないためにある」と書いてありました。
ことさらに表面上をきれいに取り繕ってみせるのは、かえって下品だとも言うのです。
真に上品な女性は、相手に恥をかかせるような言葉遣いや振る舞いを決してしないというのです。偽物の指輪だと見抜いたとしても褒め、相手がそうと知らずマナー違反をすれば、指摘などせず、むしろ一人だけ恥ずかしい思いをさせないように、自分も同じマナー違反を犯す。
教養とは見せつけるためにあるものではなく、魂の品位を守るためにあるというのです。それが乙女の所作。
この本に書かれていた「乙女の定義」は私を驚かせました。
乙女とは他人に守られてばかりいるお姫様のような女性を指すのではありません。その正体は、実に力強いものでした。
私自身はとてもそんな人間にはなれませんが、素敵な女性というものが一体なんなのか、ほんの少し分かった気がします。
【読書感想文】「虚構の家」 曽野綾子
さて、「虚構の家」という本を読みました。ネタバレには多少の配慮をしていますが、多少ですので、ご容赦くださいませ。
カトリックの人が書いた本だというから、キリスト教的な物語なのだろうと誤解していました。そもそもキリスト教的な、とはなんでしょうか。平たくいえば、神様を信じている人の本なのだから、きっとハッピーエンドで終わるのだろうと思っていたということです。
しかしこの本はそんなに単純なものではありませんでした。まさに著者自身が語る「多重構造の精神」を描いたものでした。
この物語に登場する人物をとりあげて、誰が悪いとか、誰が正しいとか言うことはできません。
不潔でいい加減な社会に悩まされた少年、基が、たどった結末は悲惨なものです。彼は潔癖症で、学校に行けず、最後には家から出られなくなってしまいました。
基が苦しんだのは、母親であるくに子のせいだと言うのは簡単なことです。
しかし、「私はくに子のような過ちを犯しません」と、誰が言えるでしょうか?
そんなことを軽々しく言い放つ人は、自分もまた偽善者であると自覚しなければならないでしょう。
雅子が送る鬱々とした毎日は、生きながらにして死んでいるようなものでした。
彼女について書かれた箇所を読むことはとても辛く、私には正視できません。彼女が迎えた結末はあまりにも寒々しく、とても悲しいものでした。夜の寒さが、自分の体にも染み渡るようでした。しかし、どこか救いがあったように思いました。
雅子の夫と息子は、女というものを物のように扱いました。雅子とその娘は、家の男たちの所有物であり、自分の意思など持ってはいけないようなものだったのです。
離婚すればいいなどと簡単に言ってはいけません。これは昔の話ですから、女に自由などなかったのです。現代の女だって、簡単に離婚なんてできませんよね。既婚者の方はよくご存知かと思います。
雅子は自分の息子にどのように扱われても、彼に尽くしました。
彼女の人生は、人の皮をかぶった怪物に仕えるためのものだったのです。
私は未熟な人間なので、雅子が真に息子のことを愛していたかどうか、分かりません。侮蔑と暴力の中で、我が子を愛する気力は残らないと私は考えています。
ただひとつ言えることは、雅子は息子の内面がいよいよもって厚かましくなっていくことを確信し、絶望していました。
息子のことが心からどうでもよいのであれば、彼の人格や、彼の未来を思って涙を流したりはしなかったでしょう。
立派な大人を自称する人は、この本を読んでいともたやすく教訓を得ることができるのでしょうか。これを読んで、自分は幸福で賢い人間だと思うのであれば、なおさらくに子と同じ過ちを犯すことにならないでしょうか。
さて、私は引きこもりなので、基の立場に立って物事を考えてみます。
この本の中には、基の目線から描かれたことは何一つありませんでしたから、全ては私の想像です。
基は潔癖症で、汚いものや、間違ったものを一切許すことができませんでした。
他人を許せないだけなら、ただ自分勝手な大人に育っただけです。
けれど基は自分のことすら許すことができませんでした。
彼は、母親や使用人のサツキが嘘をついたり誤魔化したりすると、彼は癇癪を起こします。叱られてもそうです。
なぜ癇癪を起こすのかというと、間違いを認められないからです。彼は間違っているものの存在が一切認められないのですから、自分が間違っていることを認めるということは、自分に生きている価値がないと言われるのと同様のことだったのです。
間違いを犯さずに生きていくにはどうしたらいいでしょうか? それは手段としては簡単で、部屋に閉じこもって、誰とも関わりを持たなければいいのです。私みたいに。
しかし彼は、お寺で修行して生まれ変わることを選びました。母親から離れて厳しい環境に身を置けば成長すると思っていたのでしょうか。いえ、彼は、楽観的な希望を抱いていたのです。自分にないもの、自分の知らないものを取り入れれば、自分は変われるに違いないと思っていたのです。
私もそういう希望を抱いていたことがありましたが、どんなに新しいものを取り入れてみても、何も変わりませんでした。
彼に必要だったのは立派な人間になるための修行などではありません。
では、何が基に必要なものだったのか?
結論にたどりつくために、まず、ひきこもりである私の持論を聞いてください。
清く正しい人間など、本当にこの世にいるのでしょうか。私は、ただの一人もいないと思っています。「私は真面目で優しい人間です」などと自分のことを宣伝している人間は、その真逆の人物像だと思って間違いないでしょう。
また、特定の誰かを取り上げて「いい人だ」などと紹介する人は、自分の発言について一切、責任を取るつもりはありません。その人が悪いことをすれば、「そんな人だとは思わなかった。騙された」と言うに違いないのですから。
基に必要だったのは、「間違っていても構わないんだ」という許しです。
その許しは社会からは与えられません。今の社会が間違ったことを許さないことは、炎上騒ぎなどを見ていればわかります。社会とはより多くの多数派がよりよく生活していくためにあるものなので、多数派にとっての間違いは許されないのです。
しかし家族の中ですら、間違いを許さなければどうなるでしょうか?
私はその結果どうなるかをよく知っています。
雅子は、基は家が好きだから家にこもっているのだと思っていました。そして、息子がずっと家にいてくれるなんて、母親としてなんて素晴らしいことなのだろうとすら考えていました。
いえ、それは違います。
家族すら基を許さなかったから、基は家から出ることができなくなったのです。
これは不幸なお話で、表面だけなぞると救いなんてどこにもないように思えます。
けれど私は、これを魂の解放のお話だと受け取りました。この著者は、人間の醜いところや悪いところを直視して、肯定しているのだと、私は考えます。